瞑想について

序論

私の今までのエッセイを通して読まれた方は、 魔術師に対してこんなイメージを持つかもしれない。

ボケーっと、 焦点の合わない目で中空を見つめながら、 妙な動作をしつつ訳の分からない言葉を口走る奴

或いは上記の様な連中の集団が
「黒ローブを着て密室で妙な事をしている」
という不気味な光景を思い浮かべる人もいるだろう。

ファンタジー漫画や映画に出て来る様な、 キリリと引き締った表情で恰好良く呪文を叫ぶ魔法使いを目指している人、 あきらめましょう! これが魔術師の実体です!!!

・・・ って言うとあちこちから石だの悪霊の映ったビデオだの人工精霊だの、 色々なモンが飛んできそうだ。 しかし、 まあそれ程酷い光景では無いにしろ、 そう言われても仕方の無い部分がある事は否定出来ない。

或いはこんな感想を持った人もいるかもしれない。

「要するに魔術をやってる連中ってのは、 寝ボケて幻覚を見ている単なるアブナイ奴等って訳だ。」

それに対して

そのとおおおおおぉぉぉり

と答えてしまうと、 やはりあちこちから石だの悪霊の映ったビデオだの人工精霊だの、 色々なモンが飛んできそうだ。

しかし、 先程の意見と違って、 こちらの意見には魔術を実践している者の立場からの反論が出来ない訳ではない。 そこで私は、敢えて、揺るぎない自信を持って、声を大にして言おう。
魔術は単なる幻覚などではない」と。

(いや、そのー・・・ 魔術界に 『単なるアブナイ人』 って確かに沢山いるんですけどぉ・・・ ああっっ、 ごめんなさい、 ごめんなさい・・・)

古来より、 洋の東西を問わず、 人間の心の奥底には日常の意識には関知するのが難しい、 或いは混沌として理解するのが難しい領域があり、 それが何らかの形で意識に働きかけている事は経験的に知られていた。 そしてその領域が人間が見る夢に関連している事は、 多くの伝説や歴史に夢占いや夢判断が登場する事、 そして様々な発明や発見がしばしば夢によってもたらされた事からも明らかであろう。 この領域を、 人によって分類や名前の付け方がまちまちではあるが、 ここでは 『無意識』 と総称する事にしよう。

さて、 視覚化についてのエッセイで私は魔術の世界が夢の世界である事を述べたが、 ここではもう一歩踏み込んで言わせて貰おう。
魔術とは夢を通して無意識に効果的に働きかける技術体系である
魔術儀式で用いられる様々な象徴やイメージは、 日常の世界では朧気な意味しか持たない。 しかし、 夢の世界では日常主な意志疎通の手段として用いられる言語よりも遙かに効果的な コミュニケーションの為の道具である。 従ってそれらは、 夢と強く関係している無意識の領域へアクセスする為の信号、 或いは暗号となり得るのである。

また、 視覚化についてのエッセイで人間の脳内における情報処理の一例について述べたが、 その様な情報処理にも無意識は大いに関係している。 例えばパーティの様な人の多い場所では、 高性能マイクを使って録音しても多数の声が雑多に響いている様に録音されるだけであるが、 我々人間は所謂 『カクテル・パーティ効果』 によってざわめきの中から知り合いの声を選び出す事が出来る。 これらの情報処理を、 我々は通常特別に意識する事無く行っている。 これは、 あたかもコンピュータのオペレーション・システムが ユーザの命令に従ってコンピュータを動かす際には、 ディスプレー上に現れない処理がが大半である事と似ている。 この事から、 無意識が意識には上らないが必要である処理を行っているもの、 すなわち意識の活動の基盤となっているものであると考える事が出来る。 これを認めればディオン・フォーチュンの 「魔術とは意のままに意識に変化を引き起こす術である」 という言葉は、 「魔術とは (無意識の操作を通して) 意のままに (無意識の上で動作する) 意識に変化を引き起こす術である」 と解釈出来る。

さて、 ここまで読んだ読者方々の中には 「魔術以外の手段でも、 いや、 あんなに複雑で面倒臭い儀式をしなくても、 無意識に働きかける事は出来るんじゃないのか?」 という疑問を持たれる方もいるだろう。

その通り。
『無意識に働きかける事』 自体は何ら特別な事では無い。

我々の通常の精神活動は常に何らかの影響を無意識に与えているし、 音楽を聞くとか映画を見るとか、 そういう強く情動に働きかける様な事をするだけでもそこそこ強く 『無意識に働きかける事』 は出来るのだ。 或いは (違法行為ではあるが) ちょっとアブナイ薬でもキメれば、 思考力が落ちて意識の力が弱くなるので嫌でも無意識の世界を感じる事になる。 また、 それらを適度に組み合わせれば、 某真理教の信者の様に 「我々の修行は、世間に普通に生きている人が徒歩ならば、 新幹線に乗っている様なものだ。」 などという気分にさせてくれるシステムを作る事が出来る (しかし、 その実体がどうだったのかは言うまでも無いであろう)。 だが、 問題はシェイクスピアの戯曲 『ヘンリー4世』 の有名な台詞と同じなのだ。

「俺は地獄の深みから霊を呼び出す事が出来る。」
「何? それ位私にだって、 いや誰にだって出来る。 でも、 君が呼び出した時に奴等は出て来るのかい?」

ただ漠然と無意識に働きかけた所で、 それが通常の意識が思っている方向に動いてくれるとは限らない。 大抵の場合は一時的な情動の高まりで終わってしまう。
また希に、 神戸の連続小児殺害事件の犯人が 『バモイドオキ神』 を自分自身の内面に見た様に、 無意識が心を日常の倫理から大きく逸脱させる方向にし向ける事がある。 これは個人差があるので一概には言えないが、 彼が起こした様な事件が何時の時代も無くならない事から、 それが特殊な例ではない事が分かる。
この様な通常の意識と無意識との齟齬を無くす為には、 儀式以外でも両方の意識の間のコミュニケーションを取り、 時間をかけて両者のギャップを埋めて行くしかない。

このコミュニケーションの為の修行が瞑想なのである。
『コミュニケーション』というからには、 一方的では無く、 双方向の情報のやり取りが必要となる。 人間同士のコミュニケーションにしばしば多大な労力が必要になるのと同様に、 この様な通常の意識と無意識とのコミュニケーションにも同様の、 或いはより多大な労力が必要になる。 何故ならば、 通常の意識が自然言語で思考し、 それによって他者とコミュニケーションをするのに対して、 無意識とのコミュニケーションは象徴やイメージでしか行えないからなのだ。 いわば、 同じ場所に住んではいるものの言葉の通じない外国人とコミュニケートする様なものなのである。

だが、 魔術に関わる者は、 面倒だからといってコミュニケーションの為の手間と努力を怠ってしまってはならない。
魔術が働かないならまだ良い。 そのまま魔術を止めてしまえば通常は大した問題は起こらない。 しかし、 素人がコンピュータのシステムをいじると不具合が生じる様に、 下手に魔術に手を染めたお陰で、 まともな社会生活が営めなくなってしまう様な不具合が心に生じるかもしれない。 また、 無理に無意識を従わせようとして無意識への一方的な命令を強行すれば、 薬物を利用した強制的な瞑想によって独り善がりな破滅への道を歩んだ某真理教の出家信者達と同じ道を辿るだけであろう。

己の心の奥底の暗い部分を覗く時には、 常に注意深く、 そして慎重にならねばならない。 また、その様な態度でなければ、 「汝自身を知れ」 という古来からの秘教の格言を実行する事は出来ないのだ。 そして、 それを実行し、 己自身を理解する事は魔術の大きな目標でもある。

以下の章では、 色々と切り口を変えながら、 通常の意識と無意識とのコミュニケーションとしての瞑想について考察して行こう。

(次章に続く)


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