例えば、 旧約聖書の創世記に出て来るヨセフとエジプト王パロのエピソードが有名。
例えば、 ケクレのベンゼン環の発見が彼が見たウロボロス (自分の尾を食べる蛇) の夢によってもたらされた話は有名である。 また、 日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹の中間子論も夢から着想を得たそうである。
イスラエル・リガルディーと表記している本が多いが、 ご本人と直接話をした方によると『レガーディー』の方が実際の発音に近いらしい。 ここでは『レガーディー』と表記する事にする。
黄金の夜明け団 (以下GD) に直接在籍した魔術師達の弟子達
フォーチュンは元GDのエジンバラ支部長J.W.ブロディ・イネス 及びGDの三首領の一人 S・L・(マグレガー)・マサースの妻モイナに師事していた。 レガーディーはクロウリーに師事した後、 黄金の夜明け団の分派である『暁の星』に在籍した。
例えば、 レガーディーがその著書『The Middle Pillar』でユングの説を大きく取り上げた事は、 クロウリーと彼の師弟関係が破綻する一因になった。 そして『暁の星』の入退団及び 『The Golden Dawn』の出版後、 レガーディーはユング派ではなくフロイト派のウィルヘルム・ライヒに傾倒する。 レガーディーは、 彼の最晩年のインタビューでユング心理学について、 その用語や哲学を学べたのは良かったがセラピーとしては無駄だった、 と語っている。 ひょっとすると、 彼はユング心理学が原因でクロウリーと喧嘩別れした事をちょっぴり後悔していたのかもしれない、 と私は邪推している。
H.J.アイゼンク著、批評社。
行間から著者の精神分析に対する敵意がひしひしと伝わってくる様な本ではあるが、
その緻密な議論の進め方には非常に説得力がある。
アイゼンクが示唆している、
精神分析はフロイトのコカイン中毒の産物、
という説にも簡単に否定出来ない重みがある。
訳に少し堅い部分があるのと凝ったレイアウトが逆効果にしかなっていない事を除けば、
一般に幅広く読まれるべき良書であると思う。
しかし値段が高いのとあまり部数が出ていないのが残念である。
文庫化されれば教養書として非常に高い価値を持つ本なんだけどなあ・・・。
一応補足しておくと、 他人と対話する事自体に精神を安定させる効果がある事は確かである。
また、
医者が患者と対話するという考え方自体も間違っていないのは確かである。
私の知っている医者は
「何かとすぐ薬に頼る精神科医は患者本人や家族の信頼を得られない事が多い。
医者が患者と対話する、という風潮を精神分析が作ってくれたのは良い事だ。」
と言っていた。
しかし、
患者と対話しようとしない医者など医療本来の在り方からすれば言語道断だと思うのだが・・・
前掲書第2章参照。
コップから水を飲む時に咳が止まらない事の原因が、
小さい頃に犬がコップで水を飲む光景を見た事であった、
というお話。
世間では未だに、
アンナがこの事を思い出す事によって症状が治った、
という俗説が流布している様である。
ちなみにこれを最初に指摘したのはG.C.ユングである。 しかもその後の調査ではアンナがブロイエルに治療を受けた後、 長い間スイスで治療を受けていた事が判明している。 フロイトやブロイエルが最初から嘘を付いていた可能性は高いと思われる。
例えばこの ページの 「精神科医とは何者であるか」(頼藤和寛著、PHP研究所) という本の紹介も大変参考になる。
「精神分析に別れを告げよう」第5章138ページ。
こ のページで紹介されているフランスの高名な精神分析学者ジャック・ラカンとその弟子及び患者との関係は、 まさにカルトの教祖と信者達との関係の様である。
新しい考えや物事を 創造する為の概念又は「こじつけ」の為の方法論
殆ど同じ事がカバラ、 特に魔術的カバラに当て嵌まるのだが、 その話は別の場所ですることにする。
前掲書序章11ページ。
ところで、
上記のラカンとその弟子との関係を読んでふと思ったのだが、
「精神分析」
という学派自体がカルト集団の一種なのではないだろうか?
精神分析家に成る為には他の分析家の元で数年間精神分析を受けるそうであるが、
長期間に渡って精神分析や自分が受けている分析家に対する疑問が浮かんだら
「**コンプレックスが抵抗している」
などと言われ続ける状態にあるのは一種の洗脳ではないだろうか?
カルト集団が信者をその教義や教祖に対する疑問が一切出なくなる様に洗脳する事と何処が違うのだろうか?
更に言えば、
精神分析家が
「貴方の**コンプレックスが抵抗している」
と言うのと、
怪しげな霊能力を売り物にしたカルトの構成員が
「貴方に取り付いている悪霊が邪魔をしている」
と脅すのと、
本質的な差異はあるのだろうか?
両者共に明確な根拠が無い、
という意味で大差無いと私は思う。
勿論その辺りの事に配慮している精神分析家は少なくないとは思うが、
ラカンの様な例が他にもあるのではないかという疑念は拭いきれない。
カルト野郎共はこの 「個人の尊厳」 という概念が全然理解出来ないので反論するだけ無駄である事が多いのだが、 もしも上記の様な奴等が来て、 理性的な会話が成立しない様であればとっととつまみ出すのが一番である。
ここでは暗黙の内に通常の意識と無意識をそれぞれ別個の存在として仮定している。
勿論これは根拠の不確かな仮説である事は確かだ。
しかし、
経験的には通常の表面的な心の部分と心の奥底にある良く判らない部分を切り分けて考えるのはそれ程不自然ではないと思う。
或いは、やや単純化し過ぎではあるが、
左脳−右脳の間のやり取りと考えるのも面白いかもしれない。
また、
人間が夢の中で神や天使、
悪魔や悪霊と対面している神話や伝説が数多くある事からも、
心の奥底にあるものを擬人化するというやり方は大抵の人間にとって馴染みやすいやり方であると思う。
念の為書いておくが、
これらは一人の人間の心に2つ以上の人格がある、
という意味ではないし、
人格の分裂を推奨している訳でもない。
説明の為の単なる部分分けだと思っていただきたい。
多くのオカルト修行体系では神や霊的存在と対話するという技法が頻繁に見られるが、
きちんとした修行体系ならば修行者の心理的な混乱を避ける為の配慮が修行法の中に織り込まれている。
時代劇を見慣れていない人は 「正義の人だけどワルの振りをするのが好きなお代官様と越後屋さんが、 悪い庄屋から助け出した娘さんを奥の部屋に匿っている」 というシチュエーションだと思うであろう。 (<誰も思わねーよ)
他人同士が集まってお互いに自由に喋る事を許容している、 という連帯感は勿論あるであろう。 そしてそういった場の雰囲気はある種の連帯感をもたらすし、 それにそぐわない人間はその場の大勢から反発を受ける。 その意味では 「お互いに影響しあいつつ価値観を共有している」 とは言えるかもしれない。 だがそれが本格的なコミュニケーションだとは、 少なくとも私には思えない。
そしてコレは、 魔術の最も重要な原理の一つでもあるのだ。
やはり日本男児として生まれたからには、
一生に一度は
「ふふふ、よいではないか、よいではないか」
と言いながら独楽回しの如く若い娘の帯を解いてみたいものである。
(<セクハラおやぢ)
特にオカルトの世界でよく見かけるが、
世の中には「修行をする事自体が偉い事だ」と思っている人が結構いる。
そもそも修行や訓練というものは他の何かを出来るようになる為に行うものであり、
修行そのものがどんなに上手になったところで最初の目的は達成されない。
スポーツ選手は仕事の一環としてトレーニングを行うが、
彼らは試合で良い働きをする為にトレーニングを行うのであってトレーニングの為にトレーニングをしている訳では無い。
修行の結果のみに囚われず「それで何が出来るのか」と常に先を考える事の必要性は、
インドのヨギ達も弟子への訓戒として語っている。
通常意識が受け取れなかった未処理の情報を整理する為に睡眠時に夢を見るのだ、 という説がある。この説が正しいならば、 夢を見ている際の人間の脳はいわばWindows搭載パソコンのデフラグ機能が働いている状態という事になる。
少なくとも視覚情報に関しては、
密接に依存している事はよく知られている。
「東洋人と西洋人では通常意識と無意識の関係が異なる」
と言う事が深層心理学の本などでしばしば言われるが、
それは両者の文化の違いによる神経ネットワークの発達の違いの現れなのかもしれない。
魔術に限らず願望達成の為のお呪い本やオカルトがかったビジネス本ではやたらと
『無意識の活用』
が謳われている事が多い。
そのような本では、
まるで『無意識様』を神様と崇め、
『無意識様』
に全てを任せていれば何事も上手く行く、
と思っているかのような文章をよく見かける。
だが、
無意識はいくら扱う情報量が意識より多いとはいえ、
一人の人間の視点から見た情報の蓄積によって動いているに過ぎず、
神の如き絶対的な視点ではない。
時には神戸の連続幼児殺人事件の犯人のように、
無意識が社会の中で生きていくには難しい方向で暴走する事もあるのだ。
そのような場合には通常意識から無意識をコントロールしなければならない。
その為にも
「己を知る」
という事は大切なのだ。